061~070いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな その昔、華やかに栄えていた奈良の都で咲いた八重桜が、今日はこの九重の宮中で、色美しく咲き誇っていることですよ。 「詞華集」の詞書によると、この歌は、一条天皇の御代、奈良から宮中に八重桜が献上された時、その花を題にして歌を詠むように言われて天皇の御前で即座に詠んだものです。 「伊勢大輔集」には、更に詳しく記されています。 それによると、奈良から八重桜が献上され、その受け取り役を紫式部が新入りの伊勢大輔に譲りました。 するとその場にいた藤原道長が「黙って受け取るものではない」と言い、歌を詠む事を促したといいます。 晴れの役目を先輩の紫式部から譲られたのですから、伊勢大輔は得意であったと同時に、かなりのプレッシャーを感じたことでしょう。 しかし、当意即妙、晴れの舞台に相応しい見事な出来栄えの歌と言えるでしょう。 備考 この歌は、「いにしえ」と「けふ」、「八重」と「九重」を対応させるという技巧を用いています。 美しく咲き誇る古都奈良の八重桜を褒め讃えると同時に、京の都の宮廷の繁栄を讃える心も盛り込んでいます。 【伊勢大輔】いせのたいふ 平安中期の女流歌人。(生没年共に不明) 大忠臣能宣朝臣(NO,049の作者)の孫娘。 輔親(父)が伊勢神宮の祭主であったため伊勢大輔と呼ばれた。 高階成順と結婚し、晩年には白河天皇の傅育(ふいく)の任にあたった。 歌集に「伊勢大輔集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ まだ夜の明けないうちに、鶏の鳴き声を真似て騙そうとしても、あの中国の函谷関ならばともかく、貴方と私の間の、男女が逢うという逢坂の関は、絶対に通る事を許しませよ。 枕草子の記述によると、この歌は次のような事情から詠まれている。 ある夜、藤原成行が清少納言と夜遅くまで話をしていた。 翌朝、「昨夜、鶏の声にせきたてられて帰ったのは名残惜しかった」という後朝めいた文を届けてきた。 そこで清少納言は、中国の孟嘗君の故事を踏まえて、「それは函谷関のことですか?」と返事をした。 これに対し、成行は「関は関でも貴女との間の逢坂の関ですよ」と、たわむれを言ってよこしたので、この歌を詠んだと言われている。 備考 藤原成行が、二人の間に深い関係があったかのように言ってきたのを受け、函谷関の故事と逢坂の関を結びつけて「鶏の鳴きまねで騙そうとしても逢坂の関は通しませんよ。私が貴方になど逢ったりするものですか」とやり返しています。 清少納言の博学ぶりと才能が窺えます。 【清少納言】せいしょうなごん 平安中期の女流歌人で随筆家。(本名・生没年共に不明) 父は清原元輔(もとすけ) 橘則光・藤原棟世と2度の結婚生活の後、993年、中宮定子に仕えた。 1000年定子没後の消息は不明。 紫式部と並称された才女で、持ちまえの才知と和漢の学才とを駆使した。 随筆に「枕草子」、家集に「清少納言集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな 今となっては、ただ貴女のことを諦めてしまおう、という事だけでも、人づてではなく、直接あなたに話す方法があってほしいものだ。 長和5年(1016年)、時の関白道長の圧力によって、三条天皇が退位しました。 それに伴い、伊勢の斎宮を務めていた三条天皇の皇女、当子内親王も任を終えて帰京しました。 このとき内親王は17歳で、道雅は内親王の元に秘かに通うようになりました。 しかし、やがてその噂は世間に広がり、ついに三条院の耳に入るところとなりました。 院はたいそう怒り、内親王に警護をつけて、2人を逢わせないようにしたのです。 この歌は、内親王に逢う望みを絶たれた道雅が、その時の身を切られるような思いを詠んだものです。 諦めるにせよ、せめてもう1度だけ内親王に逢って、自分の口から気持ちを伝えたいという切実な思いが伝わり心を打ちます。 備考 この歌の長い詞書が「後拾遺集」に記されています。 また、この歌が詠まれた事情は「栄花物語」などにも詳しく書かれています。 内親王はこの辛い別れに耐えられず、後に髪をおろして尼になったと伝えられています。 【左京大夫道雅】さきょうのだいぶみちまさ 内大臣伊周の子。(992-1054) 中関白藤原道隆の孫。 道長の権勢に押されて父(伊周)が失脚。 中関白家の没落後、不遇な境遇となる。 後半生は栄達を諦め風流な生活を送った。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 ほのぼのと冬の夜が明ける頃、宇治川の川面に立ち込めた朝霧が途切れ途切れになり、その切れ間から、川瀬川瀬の網代木が次々と現れて来ることだ。 冬の夜が白々と明ける時刻、作者は宇治川の畔に1人佇んでいたのでしょう。 川面に立ち込めた朝霧が静かに流れて白の濃淡を描き、さながら墨絵の世界のようです。 空がしだいに明るくなり、あちらこちらに出来る霧の切れ間から、浅瀬に立つ網代木が次々と現れて来ます。 刻々と変化していく宇治川の光景が生き生きと描かれていて、冬の早朝の清々しい空気が感じられるような歌です。 備考 宇治は、平安時代に多くの貴族の別荘が建てられた風光明媚な土地です。 そこを流れる宇治川は琵琶湖から流れ出ている川で、晩秋から冬にかけての宇治川の網代は、古くから宇治の名物でした。 この歌は、「千載集」に「宇治にまかりて侍りける時よめる」と詞書して収められています。 作者が実際に目にした光景を詠んだもので、百人一首の中では印象に残る叙景歌です。 【権中納言定頼】ごんちゅうなごんさだより 大納言公任の長男。(995-1045) 容姿が美しく和歌や書道に優れていた。 少々軽率なところがある人物。 正二位権中納言になり四条中納言と呼ばれた。 大弐三位(NO,58の作者)や小式部内侍(NO,60の作者)と親交があった。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ あの人の連れなさを恨み、我が身を嘆き悲しんで、涙に濡れて乾く暇もない袖が、やがて朽ちてしまう事さえ口惜しいのに、その上、この恋のために、つまらぬ噂を立てられて朽ちてしまう私の評判が誠に惜しいい事ですよ。 上の句では、つれない男を恨む気持ちを「涙に濡れて朽ちてしまう袖」に託して詠んでいます。 下の句で、袖に対応させて、そんな男のために浮名が立ち、袖だけでなく「自分の評判までもが朽ちてしまうこと」を嘆いています。 しかしこの歌には、薄情な男とは知りながらも諦めきれず「愛されるのなら浮名が立っても構わない」という、女心の微妙な未練も込められています。 相模も恋多き女性だったので、自身の恋愛体験をもとに詠んだ歌だと思われます。 備考 「後拾遺書」の詞書には「永承6年内裏歌合」と記されています。 これは後冷泉天皇によって開催された永承6年5月5日の「内裏根合」のことです。 歌人として高く評価されていて、「関白左大臣頼通歌合」などの多くの歌合に出詠しています。 【相模】さがみ 本名は、初名乙侍従。 平安中期の女流歌人。 父は源頼光とされている。 相模守大江公資の妻。 夫と離別後,脩子内親王のもとに女房として出仕。 情熱的な中に冷徹さをもつ新鮮な歌風。 家集に「相模集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 私がおまえを懐かしく思うように、おまえも私をしみじみ懐かしく思ってくれた。 山桜よ、こんな山奥では、花であるおまえ以外に私の心を知る人もいないのだから。 厳しい自然の中で一人修行を続ける作者は、誰に知られる事もなく青葉の中にひっそりと咲く桜の花に自分の姿を重ねたのです。 作者にとって桜の花は、ただの花ではなく、久しぶりに出会った、自分の孤独な心を分かってくれる存在だったのでしょう。 桜の花に出会ったことで、普段は修行に没頭して忘れていた人恋しさや寂しさを、ふと思い出したのかもしれません。 厳しい修行の日々に出会った山桜の美しさに、寂しさを慰められる作者の心の動きが、しみじみと伝わってくる作品です。 備考 「金葉集」の詞書には「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」と記されています。 「大峯」とは、奈良県吉野郡にある山で、山伏修行の霊山です。 作者が修行のため、この山の奥深く分け入っていた際、思いがけなく咲いている桜を見つけて詠んだものだということです。 【前大僧正行尊】さきのだいそうじょうぎょうそん 参議源基平の子。(1055-1135) 10歳で父を亡くし、12歳のとき出家して園城寺に。 17歳のとき、諸国遍歴の旅に出る。 天治2年(1125年)に比叡山延暦寺の大僧正となる。 和歌に優れていたほか、管弦や書道にも秀でていた。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ 春の短い夜の夢のような、はかない戯れの手枕をして頂いたばかりに、つまらない噂を立てられ浮名を流すことは残念でございますよ。 「千載集」の記述によれば、この歌には次のような背景がある。 2月頃の月の明るい夜、二条院(後冷泉天皇の中宮章子内親王)の元に人々が集まって、夜通し話をしていた。 その時、作者の周防内侍が横になって「枕が欲しい」と小声で言った。 それを聞いた大納言忠家が「これを枕になさい」と言って、御簾の下から自分の腕を差し入れた。 そこで周防内侍は、この歌を即座に詠んだといいます。 備考 大納言忠家が戯れで腕を差し出した事を受けて「腕(かいな)」と「甲斐なし」を掛詞にして、【はかない逢瀬でつまらない浮名が立つのは残念だ】と恋歌に仕立てて軽く誘いをかわしました。 同時に、「春の夜」・「夢」・「手枕」などの言葉を詠み込んで、優美で艶やかなイメージを醸し出している。 これに対して、忠家は「契りありて春の夜深き手枕をいかがかひなく夢になすべき」と返歌をしています。 これは当時の言葉遊びで、実際に二人の間に恋愛関係があったわけではなく、機知に富んだ歌のやり取りを楽しんだと思われます。 王朝時代の華やかな宮廷の様子が伺える作品となっている。 【周防内侍】すおうのないし 平安後期の女流歌人。生没年共に不明。 周防守平棟仲の娘で本名は仲子。 父の官名から周防内侍と呼ばれた。 後冷泉(ごれいぜい)天皇から堀河天皇までの4朝の後宮に仕えた。 歌人としても有名であったらしい。 現実的な歌風で、歌は「後拾遺和歌集」などに見える。 家集に「周防内侍集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 心ならずも、辛いことの多いこの世に生き長らえるような事があったならば、きっと恋しく思い出されるに違いない。 この美しい夜半の月であることよ。 「後拾遺集」によれば、これは作者が病気のために天皇の位を譲ろうと決心した頃に、明るい月を眺めて詠んだとされています。 この歌は、「栄花物語」玉の村菊の巻にも載っています。 それによると、退位の1ヵ月前に中宮妍子(藤原道長の娘)の前で詠んだとあります。 冬の夜空に冴え冴えと輝く月を眺めながら、現在の苦しみと将来への不安を嘆く姿が思い浮かびます。 備考 三条院は、在位中に御所を2度も家事で焼失するという不幸に見舞われています。 更に、重い眼病を患っており、失明の危機にも直面していました。 権力争いの渦中にあり、精神的にも肉体的にも追い込まれた三条院は、次第に退位を考えるようになり、長和5年(1016年)の正月に退位しました。 【三条院】さんじょういん 三条天皇のこと。(976‐1017) 平安中期の天皇。在位1011~1016年。 冷泉天皇の第2皇子。 中宮は藤原道長の2女妍子(けんし)。 後に眼病をわずらい、道長の要請もあって、在位4年半で後一条天皇に譲位した。 譲位1年後に崩御。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり 激しい山風が吹き散らす三室山のもみじ葉は、龍田川に舞い落ちて、川面に美しい錦を織り上げていることだなぁ。 永承4年、(1049年)、後冷泉天皇によって開催された内裏歌合で紅葉を題として詠まれた歌です。 「三室の山」も「龍田の川」も『万葉集』以来、多くの歌に詠まれてきた歌枕です。 どちらも紅葉の名所として古くから知られており、三室山と龍田川と紅葉の組み合わせは、和歌の世界の定番でした。 また、龍田川に散り落ちた紅葉を錦に見立てるという発想も、特に目新しくはありません。 しかしこの歌は、激しい山風のために散ってしまった三室山の紅葉は、実は龍田川の錦を織り上げるため散ったのだと詠んでいます。 そこが定番とは一味違った趣向で詠まれ、面白い仕上がりになっています。 備考 上の句は、激しい風に吹き散らされる紅葉の動的な美しさを表現しています。 また下の句では、龍田川の水面に浮かぶ色鮮やかな紅葉の静的な美しさを対照的に詠み上げています。 歌合の場に相応しい華やかな歌に仕上がっています。 【能因法師】のういんほうし 橘永やすのこと。(988-?) 肥後守元やすの子。 30歳の頃に出家して僧侶となる。 和歌を藤原長能に学び、和歌を人に師事する先例となる。 生涯に亘り漂泊の旅を続け、多くの歌を詠んだ。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮 あまりの寂しさに耐えかねて、庵を出てあたりを眺め渡すと、何処もかしこも同じように寂しい秋の夕暮れであるよ。 秋は物寂しい季節ですが、日が西の山に沈み、しだいに薄暗くなってくる夕暮れともなれば、その寂しさはひとしおです。 作者はあまりの寂しさに耐えられず、思わず立ち上がって庵の外に出て辺りを見渡してみました。 しかし、外の世界も庵の中と同じように、一面物寂しい秋の夕暮れに包まれていることを知り、しみじみと寂しさに浸ったのです。 淡々と詠み下した調子が寂寥感をいっそう深めています。 備考 秋の夕暮れの寂しさは古くから多くの歌に詠まれてきました。 「新古今集」には「三夕(さんせき)の歌」と呼ばれているものがあります。 秋の夕暮れをテーマとして詠んだ作品の中で、特に名歌とされるものです。 1.見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ (藤原定家) 2.心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ (西行法師) 3.寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ (寂蓮法師) 【良暹法師】りょうぜんほうし 詳細不明。(生没年共に不明) 一説には藤原実方(NO,51の作者)の家の女童白菊であると言われている。 多くの歌合に出詠し、歌人としては有名だった。 晩年は雲林院に住んだと言われている。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ ジャンル別一覧
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